自立した登山者への道
渡部光則
 
「自立した登山者への道」という標題で今年の「岳人」4月号に特集が組まれており、たまたまその中に小生と同じ大学山岳部出身の後輩二人(花谷泰広、横山勝丘両君)が登場しておりました。本日618730分、アラスカのデナリ(花谷−谷口けいさん[彼女も同様に「岳人」に登場]の二人パーティで、カヒルトナピーク〜カシンリッジの困難かつ長大なルート)登山中の花谷君より留守本部の小生に、BCに帰着した旨の連絡が衛星電話であり、ほっとしたところです。悪天候が続き停滞に耐え、ルート途中から北面の氷河へ下降して無事にぎりぎりの帰着を果たした彼らのことを思い、ACCO会員として目指す標記「自立した登山者」とは、いかにあるべきか。小生は最低限以下のような登山者像を描いた。
 
1.自分自身で計画立案出来ること
自分自身で対象の山と登山形態を選択し、対象の山を調査研究し、詳細な計画を立案して、実行できること。
「自分でどのルートが登れるかどうかわからない」というようないいわけは、自分自身の研究不足、目的達成への努力不足、主体性の欠如以外のなにものでもない。自分自身の夢を達成したいなら、まずは具体的目標を定め、その実現に向かって一歩一歩努力すること。連れて行ってもらった「山」は自分の「山」ではない。
 
2.総合力、想像力、判断力、決断力が備わっていること
   山はというより登山は、「問題解決学実習」である。
   山行中、いろいろなトラブルや問題(「想定外」という安易な言葉は使いますまい。)が発生するであろうが、個々の事象情況を個別に捉えるのではなく、統合し全体像を理解する総合力と予測不能なことへの想像力を発揮して、問題の本質と最良の解決策を判断し、直ちに行動に移す決断力が備わっていること。
 
3.「山」は何人で登っても、畢竟一人の行為である。
   仲間で助け合い協力して計画を達成することと、連れて行ってもらうことは全く別次元の世界である。自分自身で自分の身を守れないものが、メンバーを助けたり、パーティ全体の安全を図ることは全く不可能である。
 
4.基礎技術と知識の習得に励むこと。そして活用を図ること。
   全き「山」を目指そうとする初心者は、会、岳連主催の講習会、訓練合宿等に積極的に参加すること。そこで体得した技術、知識を自分自身で計画実行した登山で活用して初めて経験となる。講習、訓練はあくまでそれだけのもの。講習、訓練のみ参加して良しとする者は所詮それだけのこと。本番では応用が効かないし、ゲレンデ止まり、広い世界を知らないまま終わる。
 
5.山を登るということは、未知なる世界への「闖入」である。
一度ガイドブック、トポ、記録等を一切無視し、一般ルートなら5万分の1地形図、バリエーションルートや沢登りには25千分の1地形図のみで計画立案し、実際に登山してみる。そうすることで自分自身の知識、経験判断力が試され磨きがかかる。
沢登りが楽しく引きつけられるのは、この滝の上は、あの屈曲した廊下の先はどんな世界が広がっているか、一歩一歩がわくわくする行為だからだ。岩登りの詳細なルート図と違って滝の登攀ルートも通常は右岸か左岸か、直登が無理ならどちらを高巻くか程度で、自分自身でルートを選択するところが面白い。時に溯行図等一切持たず予備知識なしで、学生時代のように深い谷から谷へと漂泊した夏の山旅をしてみたい。
トレースのない雪山に惹かれるのも同じである。 2011618日記す
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